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楢崎 寛直(ならさき ひろなお、1841年(天保12年)[1] - 1895年(明治28年)8月26日[2][3])は、日本の武士(長州藩士)、内務官僚・検察官・裁判官。長野県令。通称・八十槌[4]。
長州藩士の家に生まれる[2]。
明治政府に出仕し、明治4年11月22日(1872年1月2日)筑摩県権参事に就任。同年12月3日(1872年1月12日)長野県権参事に転任。1873年8月12日、同県参事に昇進。1875年6月5日から同年12月28日まで六等判事を兼任。同年7月19日、長野県権令となり、1878年7月25日、長野県令に昇進した[4]。1877年11月、長野県の管轄地域の広大さと、県庁所在地の長野の偏在を理由として、県庁の上田への移庁伺を内務省に提出した。その後、二度目の移庁伺に対しても認可されることはなかった[5]。1881年6月24日、知事を依願免本官となり退官した[6]。
1884年12月2日、参事院議官補に就任[2][7]。1987年2月25日、検事に任官し[8]、大阪控訴院詰となる[9]。1890年10月16日、始審裁判所判事に転じ東京始審裁判所詰となった[10]。
- ^ 『日本人名大辞典』1415頁。
- ^ a b c 『明治過去帳』新訂初版、462-463頁。
- ^ 『官報』第3653号、明治28年8月31日。
- ^ a b 『百官履歴 下巻』130-131頁。
- ^ 『新編日本の歴代知事』516頁。
- ^ 「山口県士族楢崎寛直新任ノ件」
- ^ 『官報』第431号、明治17年12月3日。
- ^ 『官報』第1096号、明治20年2月28日。
- ^ 『官報』第1097号、明治20年3月1日。
- ^ 『官報』第2193号、明治23年10月20日。
- ^ 『太政官日誌』明治6年、第154号
参考文献[編集]
- 歴代知事編纂会編『新編日本の歴代知事』歴代知事編纂会、1991年。
- 秦郁彦編『日本官僚制総合事典:1868 - 2000』東京大学出版会、2001年。
- 上田正昭他『日本人名大辞典』講談社、2001年。
- 赤羽篤外編『長野県歴史人物大事典』郷土出版社、1989年。
- 大植四郎編『明治過去帳』新訂初版、東京美術、1971年(原著私家版1935年)。
- 修史局編『百官履歴 下巻』日本史籍協会、1928年。
- 太政官「山口県士族楢崎寛直新任ノ件」明治17年。国立公文書館 請求番号:本館-2A-010-00・公03847100