本山茂宗
時代 | 戦国時代 |
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生誕 | 永正5年(1508年) |
死没 | 弘治元年2月3日(1555年2月24日) |
別名 | 清茂、梅慶、梅渓 |
官位 | 左近大夫、豊前守 |
氏族 | 本山氏 |
父母 | 父:本山養明 |
兄弟 | 茂宗、茂定 |
子 | 茂辰 |
本山 茂宗(もとやま しげむね)は、戦国時代の大名。土佐七雄と称された本山氏当主。
生涯[編集]
永正5年(1508年)、土佐国本山郷の豪族・本山養明の子として誕生。
武勇に優れた人物で、『土佐物語』では「其器傑出して、偏に興立の志ありければ、近辺の金銀衣食を与へて是を懐け、諸士に賄を厚くして親みをなし、遂に人数を催して、土佐・吾川両郡に発向して、随はざるをば攻亡し、降を乞ふをば、免して幕下になし、両郡く打摩け、猛威を振ふ事甚し」といわれる傑物だった。
本山氏は土佐七雄の中では最も勢力が大きく、茂宗は山深い土佐北部から出て、経済的に豊かな土佐中央部へ侵攻し勢力を拡大。本城の本山城を子の茂辰に譲り、朝倉城に本拠を移して経営をたくましくした。天文9年(1540年)頃、契機を見て荒倉山を超えて吾川郡弘崎に兵を進め、その地の豪族・土佐吉良氏を滅亡に追い込む[1]。さらに、土佐国の有力大名であった土佐一条氏の軍と戦うなど、本山氏の最盛期を築き上げた。長宗我部氏に対しては快く思っておらず、室町幕府に媚びていた長宗我部氏を「虎の威を借る野狐」と称した[2]。
弘治元年(1555年)、死去。茂宗の死後、本山氏は長宗我部氏の反攻を受けるようになる[3]。
脚注[編集]
- ^ 茂宗は吉良駿河守の不意を襲ったという。
- ^ ただし土佐一条家の仲介を得て長宗我部氏と縁組している。また、長宗我部国親の出家を茂宗の死を悼んだものとする説もある(朝倉慶景「戦国末期の国人本山茂辰とその家族たち」(初出:『土佐史談』232号(2006年)/所収:平井上総 編『シリーズ・織豊大名の研究 第一巻 長宗我部元親』(戎光祥出版、2014年) ISBN 978-4-86403-125-7))。
- ^ 茂宗の死は本山氏の家運に決定的な打撃を与え、長宗我部氏との均衡が崩れる要因を成した。
参考文献[編集]
- 山本大『長宗我部元親』(1987年、吉川弘文館) ISBN 4642051031