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憲宗(けんそう)は、唐朝の第14代皇帝。順宗の長男。
805年4月に立太子され、同年8月には順宗の病を理由にした譲位にともない即位した。
即位後は宦官の勢力に対抗するために杜黄裳を登用した。さらに地方の節度使勢力を抑制するため、817年(元和12年)には淮南西道節度使を討って地方の統制強化も実施している。対藩鎮勢力の施策としては、儒者の臣を藩帥に任命し、監査任務を主とする監軍には宦官を配し、節度使勢力の動静を監視させる制度を開始した。さらに名臣と謳われた武元衡や李吉甫らにも恵まれ、軍備を拡張した禁軍を積極的に活用した結果、唐王朝に反抗的であった河朔三鎮も服従を誓い、衰退した唐は一時的な中興を見た。
だが、太子に立てられた長男の鄧王・李寧(恵昭太子)が19歳で早世すると、憲宗はその悲しみから仏教や道教に耽溺するようになった。法門寺の仏舎利を長安に奉迎することを計画し、韓愈の「論仏骨表」による諫言を退け、莫大な国費を費やして供養を行なった。また丹薬を乱用し宦官を虐待するという精神的異常をきたした。そのため820年に宦官の王守澄や陳弘志らによって43歳で暗殺された。
- 側室:郭貴妃(贈懿安皇后) - 皇太子時代の正室、郭子儀の子の郭曖と代宗の娘の昇平公主のあいだの娘
- 三男:遂王 李恒(穆宗) - 第14代皇帝
- 六男:絳王 李悟
- 六女:岐陽荘淑公主
- 側室:鄭宮人(贈孝明皇后) - 李錡の元妾
- 十三男:光王 李忱(宣宗) - 第19代皇帝
- 皇女:安平公主
- 側室:紀美人
- 生母不詳の子女
- 次男:澧王 李惲
- 四男:深王 李悰
- 五男:洋王 李忻
- 七男:建王 李恪 - 五代十国時代の南唐王家は建王の末裔(初代皇帝李昪が建王の末裔)を称しているが真偽の程は不明。『資治通鑑』には皇帝即位の後、李昪が役人に自身の先祖を誰にすべきかと尋ねた記述すらある為、信憑性には大いに疑問符が付く。
- 八男:鄜王 李憬
- 九男:瓊王 李悦
- 十男:沔王 李恂
- 十一男:婺王 李懌
- 十二男:茂王 李愔
- 十四男:淄王 李恊
- 十五男:衡王 李憺
- 十六男:澶王 李㤝
- 十七男:棣王 李惴
- 十八男:彭王 李惕
- 十九男:信王 李憻
- 二十男:栄王 李㥽
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