大阪大学医療技術短期大学部
大阪大学医療技術短期大学部 | |
---|---|
大学設置 | 1967年 |
創立 | 1898年 |
廃止 | 1996年 |
学校種別 | 国立 |
設置者 | 大阪大学 |
本部所在地 | 大阪府豊中市待兼山町1-1 |
学部 |
看護学科 診療放射線技術学科 衛生技術学科 |
大阪大学医療技術短期大学部(おおさかだいがくいりょうぎじゅつたんきだいがくぶ、英語: Osaka University College of Bio-Medical Technology)は、大阪府豊中市待兼山町1-1に本部を置いていた日本の国立大学である。1967年に設置され、1996年に廃止された。大学の略称は大阪大学関係者の間では医短(いたん)・医技短(いぎたん)。学生募集は1993年度まで。1994年度より大阪大学医学部に保健学科を設置するにともない、短期大学は学生募集を停止し、1996年3月31日廃止[1]。
概要[編集]
大学全体[編集]
建学の精神(校訓・理念・学是)[編集]
- 大阪大学を参照。
教育および研究[編集]
- 元々大阪大学には、医学部付属看護学校、診療エックス線技師学校、衛生検査技師学校が存在しており、それぞれ専門医療従事者の育成を行っていた。
学風および特色[編集]
- 大阪大学医療技術短期大学部は、医療技術の急速な進歩に対応し得る、より高度な知識・技術を持った医療従事者の育成を目的として、これら学校を発展的に解消・統合させる形で設置された。
- 経緯上、大阪大学に「併設」という設置形態であり、また様々な面で大阪大学と一体的な運営がなされていたものの、建前としては独立した一個の大学である(短期大学部の長が「学長」であるのは、その現れである)。
沿革[編集]
- 1898年4月 大阪医学校附属看護婦養成所の開設。
- 1952年4月 大阪大学医学部附属診療エックス線技師学校の開設。
- 1965年4月 大阪大学医学部附属衛生検査技師学校の開設。
- 1967年6月 上記の3学校を合併・改組して大阪大学医療技術短期大学部開学。
- 看護科
- 診療放射線技術科
- 衛生技術科
- 1976年 各科を学科とする。
- 1993年 学生受け入れ最後となる。
- 1996年3月31日廃止[1]。
基礎データ[編集]
所在地[編集]
- 大阪府豊中市待兼山町1-1[2]
象徴[編集]
- 大阪大学を参照。
教育および研究[編集]
組織[編集]
学科[編集]
- 看護学科
- 診療放射線技術学科
- 衛生技術学科
専攻科[編集]
- なし
別科[編集]
- なし
取得資格について[編集]
受験資格
年度別学生数[編集]
- | 看護学科 | 診療放射線技術学科 | 衛生技術学科 | 出典 |
---|---|---|---|---|
入学定員 | 80 | 40 | 40 | - |
総定員 | 240 | 120 | 120 | - |
1967年 | 男? 女? |
男? 女? |
男? 女? |
[3] |
1968年 | 男2 女133 |
男60 女10 |
男23 女69 |
[4] |
1969年 | 男2 女133 |
男60 女10 |
男23 女69 |
[5] |
1970年 | 男6 女170 |
男81 女27 |
男15 女114 |
[6] |
1971年 | 男4 女191 |
男90 女30 |
男10 女109 |
[7] |
1972年 | 男3 女205 |
男89 女28 |
男5 女114 |
[8] |
1973年 | 男3 女220 |
男100 女23 |
男2 女120 |
[9] |
1974年 | 男3 女220 |
男100 女23 |
男2 女120 |
[10] |
1975年 | 男4 女189 |
男105 女22 |
男9 女117 |
[11] |
1976年 | 男2 女197 |
男101 女25 |
男12 女107 |
[12] |
1977年 | 男2 女206 |
男98 女32 |
男13 女102 |
[13] |
1978年 | 男5 女202 |
男97 女31 |
男16 女95 |
[14] |
1979年 | 男7 女216 |
男93 女26 |
男17 女98 |
[15] |
1980年 | 男8 女216 |
男90 女27 |
男13 女105 |
[16] |
1981年 | 男8 女233 |
男90 女32 |
男15 女112 |
[17] |
1982年 | 男5 女241 |
男85 女41 |
男12 女111 |
[18] |
1983年 | 男3 女235 |
男83 女37 |
男15 女111 |
[19] |
1984年 | 男3 女240 |
男82 女38 |
男9 女111 |
[20] |
1985年 | 男3 女243 |
男97 女31 |
男10 女107 |
[21] |
1986年 | 男1 女244 |
男102 34 |
男14 女111 |
[22] |
1987年 | 男1 女241 |
男110 女36 |
男17 女108 |
[23] |
1988年 | 男1 女240 |
男95 女39 |
男13 女110 |
[24] |
1989年 | 男1 女243 |
男93 女36 |
男15 女102 |
[25] |
1990年 | 男1 女248 |
男90 女35 |
男14 女106 |
[26] |
1991年 | 男1 女246 |
男88 女35 |
男17 女103 |
[27] |
1992年 | 男2 女244 |
男84 女36 |
男11 女109 |
[28][29] |
1993年 | 男5 女233 |
男79 女39 |
男8 女116 |
[30] |
1994年 | 男5 女152[31] |
男52 女26[31] |
男4 女79[31] |
[32] |
1995年 | 男4 女76 |
男25 女15 |
男2 女39 |
[33] |
学生生活[編集]
部活動・クラブ活動・サークル活動[編集]
- 大阪大学医療技術短期大学部において活動していたクラブ活動は文科系体育系クラブがあり阪大生とは独自の活動が行われていたが、クラブ数は限られており、阪大のクラブに加入する学生も少数なからずいた。
学園祭[編集]
- イタンの学園祭は本学とは独自にクラブを中心に模擬店などを開催した。大阪大学を参照。
大学関係者と組織[編集]
大学関係者組織[編集]
- 生活協同組合は短期大学部独自のものではなく、関係者は大阪大学生活協同組合に加入していた。
大学関係者一覧[編集]
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大学関係者[編集]
- 岡田實:1967年6月 - 1969年5月
- 釜洞醇太郎:1969年8月 - 1975年8月
- 山村雄一:1979年8月 - 1985年8月
- 熊谷信昭:1985年8月 - 1991年8月
- 金森順次郎:1991年8月 - 廃止まで
出身者[編集]
施設[編集]
キャンパス[編集]
- 短期大学部が置かれていたのは、大阪帝国大学医学部付属医院石橋分院の跡地である[34]。この場所は、大阪大学豊中キャンパスの中でも最西端に位置し、待兼山の西側斜面一帯がキャンパスであった。
- 現在、大阪大学総合学術博物館として使用されている建物(待兼山修学館)は、嘗ての短期大学部本館である[35]。また、現在阪大坂下の駐輪場として整備されている一帯には、大教室や、小規模ながら図書室や食堂といった施設が設けられていた。一方、これら施設が待兼山の麓、阪大坂入り口付近にあったのとは対照的に、講義室棟は待兼山を山頂へと登っていく途中に設置されていた。例外的にではあるが、阪大の一般教養科目が医短講義室で開講されることもあった。
対外関係[編集]
系列校[編集]
卒業後の進路について[編集]
就職について[編集]
- 大半は、専門職を活かした職に就いているものとみられる。
参考文献[編集]
- 『全国学校総覧』昭和44年度版~96年度版
- 『全国短期大学一覧』1967年度版~1985年度版[36]
- 『全国短期大学高等専門学校一覧』(財団法人文教協会)昭和49年度版~
- 『全国短期大学受験要覧』(廣潤社)1970年度版~1993年度版
- 『全国短期大学案内』(教学社)1987年~1993年度版
- 『全国短期大学受験案内』(晶文社)昭和40年度版~1993年度版
- 『全国短期大学案内』(梧桐書院)1971年度用~1993年度版
関連項目[編集]
関連サイト[編集]
脚注[編集]
- ^ a b 平成23年度『全国短期大学高等専門学校一覧』243頁より。
- ^ 住居表示の変更が行われたため、現在の「待兼山町1-1」とは別の場所である。
- ^ 6月設置のため、昭和43年度版『全国学校総覧』(以下、『総覧』と略する。)未掲載。
- ^ 昭和44年度版『総覧』27頁
- ^ 昭和45年度版『総覧』27頁より。学園紛争の関係で、当年度の学生数の情報収集ができず、便宜上昨年度と同数で表示されている。そのため、学生数は不詳。
- ^ 昭和46年度版『総覧』27頁
- ^ 昭和47年度版『総覧』27頁
- ^ 昭和48年度版『総覧』28頁
- ^ 昭和49年度版『総覧』29頁
- ^ 昭和50年度版『総覧』31頁より。諸事情によりやむを得ず、昨年の学生数が表記されているため、当年度の学生数は不詳。
- ^ 昭和51年度版『総覧』32頁
- ^ 昭和52年度版『総覧』32頁
- ^ 昭和53年度版『総覧』32頁
- ^ 昭和54年度版『総覧』33頁
- ^ 昭和55年度版『総覧』33頁
- ^ 昭和56年度版『総覧』35頁
- ^ 昭和57年度版『総覧』35頁
- ^ 昭和58年度版『総覧』36頁
- ^ 昭和59年度版『総覧』36頁
- ^ 昭和60年度版『総覧』36頁
- ^ 昭和61年度版『総覧』41頁
- ^ 昭和62年度版『総覧』41頁
- ^ 昭和63年度版『総覧』42頁
- ^ 昭和64年度版『総覧』45頁
- ^ 1990年度版『総覧』46頁
- ^ 1991年度版『総覧』46頁
- ^ 1992年度版『総覧』46頁
- ^ 1993年度版『総覧』48頁
- ^ 『短大蛍雪』(全国短大&専修・各種学校受験年鑑シリーズ、1992年9月臨時増刊号)121頁には「男97、女388(うち1年生男30、女126)」と表記されており、データ上女子学生数が1人減っていることがうかがえる。
- ^ 1994年度版『総覧』49頁
- ^ a b c 今年度より学生募集なし。
- ^ 1995年度版『総覧』50頁
- ^ 1996年度版『総覧』53頁
- ^ 医短正門を入った地点には、2000年代はじめ頃まで「大阪帝国大学」と刻まれたマンホールの蓋が残っていた
- ^ 現在、待兼山修学館前には、医療技術短期大学部の記念碑が設置されている
- ^ 1979年度版以前は『短期大学一覧』