ペリー・マッカーシー

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ペリー・マッカーシー
2003年
基本情報
国籍 イギリスの旗 イギリス
出身地 イングランドの旗 イングランドロンドン
生年月日 (1961-03-03) 1961年3月3日(63歳)
F1での経歴
活動時期 1992
所属チーム アンドレア・モーダ
出走回数 6 (0 starts)
優勝回数 0
表彰台(3位以内)回数 0
通算獲得ポイント 0
ポールポジション 0
ファステストラップ 0
初戦 1992年ブラジルGP
初勝利 -
最終勝利 -
最終戦 1992年ベルギーGP
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ペリー・マッカーシー: Perry McCarthy1961年3月3日 - )は、イギリスの元レーシングドライバーロンドン出身。

経歴[編集]

四輪レースデビュー[編集]

1983年、22歳で参戦したイギリス・ダンロップ新人レース戦で25戦中10勝を挙げ現地で注目され、その頃より「いつかF1に乗れるまで頑張りたい」と発言しイギリスレース界に名が広まった[1]。1984年よりイギリス・フォーミュラ・フォード1600に参戦、4月21日オウルトン・パーク決勝レースでは4位争いの最中に前車に追突し、その反動でマッカーシーのヴァンディーメン・RF84は横方向に横転し宙を舞い、グリーン上を数回転してマシン後部から着地する大きなクラッシュとなり赤旗中断となった。コースマーシャルがコクピットに近づくと彼は意識を失っており、救急隊により体を安全な場所に移した10数分後に意識を回復、彼は自分の無事を喜び、立ち上がって観客席に手を振り無事をアピールした。精密検査の結果、負傷はかすり傷程度しか負っておらず、このクラッシュの模様を「若き不死身のヒーロー」として多くの一般紙のマスコミやテレビが報じたため、彼のイギリスにおける知名度はさらに高まった[1]

1985年、フォーミュラ・フォード・フェスティバルに参戦し、18位で完走。1986年よりイギリス・フォーミュラ3選手権にフル参戦、1987年にランキング8位となった。なお、ジョニー・ハーバートはFF1600とイギリスF3同時期参戦であり、長く友人である。

フォーミュラ3000[編集]

1988年シーズン後半より国際F3000選手権にステップアップするが、スポット参戦契約だった。1989年も国際F3000でのレギュラーシートは得られなかったが、イギリスF3000選手権の最終戦ブランズ・ハッチでGAモータースポーツのシートを1戦のみ獲得。ここで優勝したゲイリー・ブラバムに次ぐ2位表彰台を獲得し、これがF3000でのベストリザルトとなった。

スポーツカーレース[編集]

フォーミュラのレギュラーシートを失っていた1990年と1991年は、スパイス・エンジニアリングスパイス・SE90P英語版に乗る一員として、アメリカIMSA-GTPに参戦していたが、1991年シーズン中盤にF1フットワーク(アロウズ)ポルシェV12エンジンの不出来により搭載エンジンを急遽コスワースDFR V8へと変更することになり、この変更されたマシン・FA12Cの初期テストを依頼された[2]。同年オフにはウィリアムズF1のテストドライバーの候補になったが[3]、そのテスト担当者は結局デイモン・ヒルが採用されることとなりマッカーシーのウィリアムズ入りは成らなかった。

F1[編集]

1992年イタリアの小チームコローニを買収した新チーム「アンドレア・モーダ」と契約してF1にステップアップを果たす。しかしチーム体制が極めて脆弱で、デビューが予定されていた第3戦ブラジルGPではチームの手続き不備により、F1参戦に必要なスーパーライセンスが発給されず予備予選に参加すらできないという事態に陥る。

FISAフォーミュラ委員会のFAX投票による再検討の結果、マッカーシーのF1参戦資格に問題なしとの統一見解が得られたため、スーパーライセンスが正式に発給された第4戦から予備予選参加が実現したものの[4]、アンドレア・モーダはNo.1ドライバーのロベルト・モレノにチームの全リソースを注ぎこむ体制を取っていたため、マッカーシーは予備予選をわずか1周しか走れないということが続き[5]、予備予選落ちを繰り返した。この年からレギュレーションによってF1への1カーエントリーが禁止され、2カーエントリーが義務化されたことから、マッカーシーはチームにとって便宜上の理由だけのエントリーであった。

第12戦ベルギーGPからはブラバムの参戦撤退によるエントリー台数減少により予備予選が行われなくなったため、マッカーシーは本予選からの出走となったが、チーム内の扱いは変わらず、大差での予選落ちを喫した。このグランプリを最後にチームはオーナーであるサセッティの不祥事などもあり国際自動車連盟(FIA)から「F1の信用と価値を貶めた」としてF1参戦を禁止され、事実上追放された。これ以降マッカーシーがF1シートを得ることはなく、従ってマッカーシーは一度もF1の決勝レースを走っておらず、厳密には「F1デビュー」は果たしていない。

スポーツカーレース[編集]

マッカーシーはその後ベネトン・B192ウィリアムズ・FW15Cで単発的なテストドライブを担当したあと、1996年のイギリス・フォーミュラ2選手権 (F3000マシンを使用)レイナード・95Dでスポット参戦、これがフォーミュラレース参戦の最後となった。

1996年からはスポーツカーレースを中心にレース活動を続けた。1996年のル・マン24時間レースオレカチームクライスラー・バイパー GTS-Rで初参戦。1997年はデビッド・プライス・レーシングと契約しパノス・GTRでル・マン24時間に加えてFIA GT選手権にも参戦した。

1999年アウディと契約し、アウディ・R8Cをドライブ。しかし、ル・マン24時間には通算5回参戦したが、完走を経験することが出来なかった。

2004年のポルシェ・カレラカップブランズ・ハッチラウンドへの参戦がレーシングキャリアの最後となった。

2012年、ドイツで行われるフォルクスワーゲン・シロッコRカップで8年ぶりにレース参戦した。

初代スティグ[編集]

2002年に再スタートを切ったBBCの自動車番組『トップ・ギア』に、番組名物の覆面ドライバーの「ザ・スティグ(初代、通称「ブラックスティグ」)」として登場し、翌年の第2シリーズ終了まで出演を続けた。

当時はスティグの正体がマッカーシーであることは伏せられていたが、2010年にマッカーシーが初代スティグであることがBBCにより明らかにされた(詳細はザ・スティグ#正体を参照)。

レース戦績[編集]

フランス・フォーミュラ3選手権[編集]

エントラント シャーシ エンジン 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 順位 ポイント
1986年 マジウィック・モータースポーツ レイナード 863 フォルクスワーゲン-スピース NOG ALB MAG PAU LAC ROU LEC
7
ALB2 BUG LED CET
Ret
17位 4

イギリス・フォーミュラ3選手権[編集]

チーム シャシー エンジン タイヤ クラス 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 順位 ポイント
1986年 マジウィック・モータースポーツ レイナード・863 VW A A THR
15
SIL
Ret
THR
10
SIL
Ret
BRH
6
THR
DNS
DON SIL SIL
12
OUL
11
ZAN
9
DON
7
SNE
5
SIL
DNS
BRH
Ret
SPA
2
ZOL
5
SIL
Ret
12位 11
1987年 レイナード・873 A SIL
C
THR
7
BRH
5
SIL
5
THR
Ret
SIL
2
BRH
DNS
THR
9
SIL
13
ZAN
Ret
DON
Ret
SIL
17
SNE
6
DON
17
OUL
5
SIL
6
BRH
3
SPA
10
THR
5
8位 22
1988年 コンセプト3 レイナード・883 アルファロメオ A THR SIL THR BRH
DON
SIL BRH
Ret
NC 0
マジウィック・モータースポーツ レイナード・883 アルファロメオ THR SIL DON SIL SNE OUL
10
SIL BRH SPA THR SIL

国際フォーミュラ3000選手権[編集]

チーム シャーシ エンジン タイヤ 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 順位 ポイント
1988年 GAモータスポーツ ローラ・T88/50 コスワース DFV A JER VLL PAU SIL MNZ PER BRH BIR
DNQ
NC 0
チーム・ラルト ラルト・RT22 ジャッド BUG
Ret
ZOL
Ret
DIJ
16
1989年 ロジャー・カウマン・レーシング ローラ・T89/50 コスワース DFV SIL
VLL PAU JER PER BRH BIR
DNQ
SPA
7
BUG
15
DIJ NC 0

イギリス・フォーミュラ3000 / F2選手権[編集]

エントラント シャーシ エンジン 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 順位 ポイント
1989年 GAモータースポーツ ローラ コスワース DFV BRH THR OUL DON BRH SNE SIL OUL
BRH
2
8位 6
1996年 DKSレーシング レイナード 95D コスワース OUL SNE1 SNE2 SIL OUL DON BRH SIL
3
BRH
Ret
DON
Ret
9位 4

フォーミュラ1[編集]

チーム シャシー エンジン タイヤ 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 順位 ポイント
1992年 アンドレア・モーダ S921 ジャッド G RSA MEX BRA
DNP
ESP
DNPQ
SMR
DNPQ
MON
DNPQ
CAN
DNP
FRA
DNA
GBR
DNPQ
GER
EX
HUN
DNPQ
BEL
DNQ
ITA
DNP
POR JPN AUS NC 0

ル・マン24時間レース[編集]

チーム コ・ドライバー 使用車両 クラス 周回 総合順位 クラス順位
1996年 フランスの旗 バイパー チーム オレカ フランスの旗 ドミニク・デュプイ
イギリスの旗 ジャスティン・ベル
ダッジ・バイパー GTS-R GT1 96 DNF DNF
1997年 イギリスの旗 デヴィッド・プライス・レーシング オーストラリアの旗 デビッド・ブラバム
アメリカ合衆国の旗 ドック・バンディ―
パノス・エスペランテ GTR-1 GT1 145 DNF DNF
1999年 イギリスの旗 アウディ・スポーツ UK イギリスの旗 ジェームス・ウィーバー
イギリスの旗 アンディ・ウォレス
アウディ・R8C LMGTP 198 DNF DNF
2002年 フランスの旗 DAMS フランスの旗 ジェローム・ポリカン
ベルギーの旗 マルク・デュエツ
パノス・LMP-1 ロードスターS LMP900 98 DNF DNF
2003年 イギリスの旗 アウディ・スポーツ UK
イギリスの旗 アリーナ・モータースポーツ
ドイツの旗 フランク・ビエラ
フィンランドの旗 ミカ・サロ
アウディ・R8 LMP900 28 DNF DNF

脚注[編集]

  1. ^ a b こんな大事故でもカスリ傷だけ!FF1600のP.マッカーシー byキース・サットン オートスポーツ 104頁 1984年月日
  2. ^ フォトギャラリー ペリー・マッカーシー公式サイト ギャラリー
  3. ^ ウイリアムズがヒルとテスト契約か 他にも候補としてD.ブラバム、E.アーバイン、P.マッカーシー、J.ベイリー、A.G.スコットらの中から。 グランプリ・エクスプレス Off-Season Special 山海堂 1991年2月8日発行 30頁
  4. ^ マッカーシーにスーパーライセンス スペインGPより出走可能 Racing On No.121 35頁 ニューズ出版 1992年6月15日発行
  5. ^ 『AUTO SPORT F1 ドイツGP速報』三栄書房、1992年8月15日、49頁。

関連項目[編集]